7/31/2014

有形と無形

滞在108日目。7月31日(木)の午前4時40分。

108日目。煩悩の溢れるこの街で,とうとう煩悩の数だけ滞在してしまった。

その煩悩をポイポイ捨てていくために,ただひたすら身体を練る。身体を練れば練るほど,身体に安住し,そこにある自己ですでに満たされていることに気がつく。今いるここが天国。仏教はそう教える。しかし,あらゆる欲望を捨てるというのは,人間,なかなか無理がある。欲望はだから,強すぎず,弱すぎず,中庸が良い。これは道教の教え。

ところで,一昨日,スティーブに,師匠のMr.Pangの動画を見せてもらった。伝統楊式の套路の柔らかさもさることながら,即興の演武は,なんともすごかった。即興の演武である。題して「生命之舞(dance of life)」とあった。そう,Mr.Pangに関するサイトのタイトルに掲げられる,a dance of spiritual lifeである。

分かりやすく言えば,これは,コンテンポラリーダンスの一種とも見ることができる。昨日,スティーブに詳しく聞いたらやはり,即興で,身体の赴くままに自由に演武するそうで,毎回違うと言っていた。続けようと思えば延々と続けられるらしい。ベースには,太極拳・八卦掌・形意拳があり,それがMr.Pangの中でミックスされて溢れてくる。その溢れるがままに舞う。溢れてくるには,溢れてくるほど身体を練り込んできた,ということだ。

形があって形がない。動きの部分部分は確かに太極拳であったり,八卦掌であったり,形意拳であったりするけれども,全体としては太極拳でも八卦掌でも形意拳でもない。また,動きの順番も,決まっていない。形がベースにあるけれども,全く形に沿っていない。有形だけど無形。

いわゆるブルース・リーのジークンドーは,武術の一つの究極であり,その基本理念は,無形,である。また,中国武術の一つの究極である意拳もまた,同じく,形がない。

スティーブは,Mr.Pangを評して盛んに,geniusだと言っていた。彼はまさに天才的なマーシャル・アーティストだと,繰り返し言っていた。そして,突き詰めれば,形(固定した動きの順番)など本当はどうでも良いのだ,とも言っていた。太極拳の本質とは何かを捉えていること(捉えようとしていること)が重要であり,その幹さえしっかり理解していれば,動き方や動きの順番というのは枝葉だ,ということだ。

マーシャルアーツというのは,究極的には,そこに行き着く。いや,アートというのは,すべて,そこに行き着く。自然に,云為に,身体が身体のままに,動く。

ただ,その道程において,形は必要であり,その形こそにその武術の本質が刻まれていることもまた事実である。だから,形無しを気取って,早々に,形をおろそかにしてはいけない。それは本末転倒である。大いなる勘違いである。修行の終着点は,そんなに近い(低い)ところにはない。

7/30/2014

焦らずゆっくり

滞在107日目。7月30日(水)の午前4時。

昨日,スティーブにお誘いいただき,彼が教えている別の太極拳教室にお邪魔させてもらった。朝9時15分からの教室。住んでいるところから少し遠くになので,歩けなくはないが,バスに乗って出掛けた。

朝9時15分から1時間の教室。朝早いにもかかわらず,15名ほどの参加者が来ている。一人,日本人の女性に声を掛けられ,彼女もまた,スティーブの人柄と教え方が好きで通っていると言っていた。本当にみな,口々に,スティーブは良い先生だ,スティーブはクラシカルなタイチーだから良い,他の普通のタイチー(だいたい制定の現代太極拳のことを指していることが多い)の先生と比べてずっと良い,ということを言う。

その良さは,スティーブが,外的な身体操作と内的な身体感覚を,バランスよく丁寧にゆっくり根気よく繰り返し説明しながら稽古を進めるからだと思っている。もちろん,それに,スティーブの独特の柔らかい人柄がプラスになっている。

僕ならなかなか上手くならない生徒についいらだちを覚えてしまうかもしれない。しかし,太極拳の稽古は長いのだ。焦らずゆっくり稽古する。それもまた太極拳の太極拳たるところか。上手だろうが下手だろうが,その人のそのときのそれがその人の太極拳である。本来,武道とはそうあるものである。空手も同様である。しかし,つい「早く」上手になることを求めてしまう。もちろん上達することは悪いことではない。しかし何も焦る必要はない。なぜ急ぐ。人間はいずれ死ぬのだ。今どうあるかが重要なのだ。そのことを改めて感じさせてくれるのが,太極拳かもしれない。

柔らかくなればなるほど強くなる(the softer you become, the stronger you will be),という言葉を直々にいただいた。そしてその身体の柔らかさを心の柔らかさへと広げるのだ(Extend softness in the body to the mind),と。

そういえば,昨日の稽古で,Dr. Don Enokiにお会いできた。まさしくGentlemanである。偉ぶったところは一切なく,笑顔を絶やさない。合気道七段の御年75歳ということだが,全然若く見える。まずその身体や表情から発する力が,普通の75歳とは全く違う。なんというか,やはり典型的な武道家の雰囲気を感じる。武道家というのは,熟練すればするほど,他者に優しくなる。そうでなければその人は武道家ではない。Dr. Enokiは,安定した芯(自信)を持ちつつ,他者への配慮と思いやりに富んだ人物であった。

スティーブもおそらく60歳に近い(昨日,チラッと,61歳,と聞こえたような気がする)けれども,なんとも若々しい。武術を真摯に続けるということは,生きている間,じんわりとエネルギーを培うのだろう。

僕もいつか,自分より若い世代からこう思われる武道家になっていたい。

ところで一つ昨日も,面白い説明をしていた。師匠のMr. Pangが言っていたことの受け売りだと断っていたけれど,例えば前に進むとき,足を上げて前方に移動させ着地させるわけだが,このときに,筆で字を書くときのように動かす,というのだ。なるほど~。この教えは,前に進むときの足の動きだけでなく,すべての動きに適用できる気がする。

筆や鉛筆やペンで字を書くとき,強すぎても弱すぎても書けない。我々は当たり前のように紙に字を書いているが,知らず知らずのうちに(無意識に)絶妙なバランスを保った力の入れ具合で,筆を動かしている。というのも,筆を持ち始めて絵や字を書き始めた幼い子どもは,この力のバランスが上手く保てない。だから,線が濃かったり薄かったり,曲がったりのたうったり,短すぎたり長すぎたりする。手の力の入れ具合が,まだうまく調整できないのだ。そうやって何年もの長い間訓練を重ねた結果が,今のバランスの取れた筆記行動なのである。つまり,無意識に安定した技になるためには,何年のかかるのだ。

だから,武術もそういう風に絶妙なバランスを保った動きや技に至るまでには,何年もかかって当たり前なのだ。だから,焦らずゆっくり稽古する。

ところで,全く関係ないけれど,昨日の稽古の帰りにクヒオ通りを歩いていると,①万引きして店を飛び出し店員に追いかけられるホームレスと,それとは別に,②店のドアを殴ったり観光客を脅かしたり押したりして暴れているホームレスを見た。①の人は店員を振り切って逃げたけど,②は観光客に通報されて警官に尋問されていた。万引きしなくちゃいけない事情,暴れなくちゃいられない事情を考えると,悲しい気持ちになる。

7/29/2014

気持ち良さ

滞在106日目。7月29日(火)の午前4時40分。

以前,スティーブと,空手と太極拳の稽古をしたときの違いは何かについての話になった。そのときに,答えに窮したことがある。その答えを,昨日の稽古の時にふと思いついた。

以前のそのとき,なぜそういう話になったかというと,太極拳の稽古をした後は気持ちが良い,ということを僕がスティーブに言ったからだ。するとスティーブが「では,空手の稽古の後はどうなんだ?」と尋ねてきたので,ふむ,確かに当然,空手の稽古の後も気持ちが良いので,稽古の後の気持ちの良さは空手も太極拳も同じだから,そこに違いはない。

そこで答えに窮し,「空手は,稽古した後に疲れるかな」と無理矢理に答えたところ,スティーブは「そういう意味では,太極拳だって疲れる。太極拳も相当な運動だ」と言う返事に,確かにその通りであり,ここでさらに困ってしまった。このときはだから,感覚的にはなんとなく違うんだけれど,どこがどう違うのか,明確に分からなかったのである。

それで昨日,ふと思いついた。空手は形そのものが運動的な面で時にきついと思うときがあるけれど,太極拳は套路を練ること自体が気持ちよいのだ。

これは,伝統的な稽古方法に始まり,稽古時間,師範(インストラクター)の性格などにも依存するから,一概には言えないけれど,空手という武術の運動と太極拳のそれとの違いは,強度の違いが当然大きい。

空手の場合,形を練ると多少なりとも息が上がる。汗も出る。理想的には,なるべく息が上がらないように形を練るべきだけれど,まだまだ練りが足らないために理想にはほど遠い。後で書くけれど,実はここがポイントなのだ。

さて太極拳では,息が上がることはない。じんわりと身体を練る。運動量は相当であるが,だくだくと汗をかいて息が上がってへとへとになる,ということはない。じっくりと柔らかく,なるべく力を使わないように動く。気持ちが良い。これを気で表現すれば,身体全体の気の流れが良くなる,ということだろうか。

では,空手では気の流れが良くならないのか。

太極拳の文脈で言えば,空手は始終「勁」を発し続けている武術といえる。つまり,常にではないけれど,強く速く動くことが随所に含まれている。力を使う。これが体力を消費する。筋肉を緊張させる場面が多いから,交感神経系優位になる。したがって,形の後は,その反動で副交感神経系が優位になり,気持ちよくなるわけだ。しかし,形の最中は,どうしてもそうはいかない。

これはまだまだ修行が足りないのだ。この先には,おそらく,太極拳と同じところに行くべきなのだ。つまり,気の流れが良くなるような形を練るべきなのだ。たとえ空手の形でも,そうあるべきなのだ。言い換えれば,空手の形を練るそのことそのものが,気持ちの良い運動になるまで練り上げていくことが重要なのだ。

そう思うと,確かに,形を練っていて,身体的に気持ちの良い瞬間というのが確かにときどきにある。フロー状態である。このときはたぶん,妙な力は入っていない。柔らかく自然に形が練られているのではいか。あの感じを全体に伸ばしていければいいのかもしれない。

それでさらに思い出したけれど,僕の師匠の小林先生の師匠である西田先生(正修館館長)は,形を終えた後,まったく息が上がってない(少なくとも,上がっているようには見えない)。自然に動いている。無理な力は一切入っていない。

あの域に達するには,僕の修行はまだまだ足りない。

7/28/2014

ハナウマ湾

滞在105日目。7月28日(月)の午前7時30分。

昨日,日曜日だったので,The Busの22番に乗ってハナウマ湾まで行ってきた。オアフ島で一番のシュノーケルポイント。自然保護のために,入場料大人一人7.50ドル(12歳以下無料),加えて10分弱のビデオ講習を受けなければならない。ビデオ講習と言っても,とにかく映像を見て,この湾の成り立ちと歴史,湾内でしてはいけないこと(珊瑚礁や生物に触ったり,餌をあげたりしてはいけないことなど)のレクチャーを受ける。

奥さんと子ども二人は,珊瑚礁のある方まで行って,たくさんの魚などを存分に見て来たようである。僕は腰がまだ痛いし,足が攣るといやなので,遠くまで行くのは回避。砂浜近くの岩にも色んな魚が遊泳していて,それなりに堪能した。(しかし,前にも書いたけれど,浅瀬に関しては,グアムやパラオの方が,魚などの生き物が格段にたくさんいる)

生物に触ってはいけないというルールがそれなりに徹底されているのだろうか(中にはそういうルールを無視して触る輩もいるだろうけれど),ここの魚は人にびびらない。ワイキキの魚は,人陰や人の動きを察知するやいなや,逃げる。でも,このハナウマ湾の魚は,人が近づいてきてもそんなに急いで逃げない。だから,気がつかないで泳いでいると,触れそうになってしまう。それなりにそっちでも逃げるよう努力してくれよ,魚くん。

それぐらい自然が保たれているということであれば,こうして7.50ドル取ってビデオ講習する意義は大きい。青いTシャツを着た(たぶん)ボランティアのスタッフのみなさんが大勢働いている。自分の島の海を大切にしよう,という心意気は気持ちが良い。

この,オアフ島南側の海岸線沿いは,ビーチが点在しているだけで他に何もない。好きな人はこういう小さく点在するビーチにまで足を運んで遊んでいる。太平洋が雄大に広がっている。海と岩場と海岸線の道路。こういう景色は,日本と似ている。オハフ島が島であるように,日本も島なのだ。

7/27/2014

武縁

滞在104日目。7月27日(日)の午前4時30分。

来週にはもう8月である。ホノルルもあと3週間ぐらい。あっという間な気もするし,また,ずいぶん長くいるような気もする。

ギックリ腰はだいぶ良くなった。しかし,回復に1週間以上もかかるのかと思うと,ギックリ腰をなめてはいけない。これでもたぶん,軽症の方だろう。全く動けなかったのは翌日までだったから。

腰をかばって動いていたら,右足の踵の後ろを痛めてしまった。アキレス腱の付け根のような気がする。背中全体もやや痛い。寝返りが打ちにくいからだろう。

残り3週間,スティーブが別のところで教えている太極拳クラスに参加させていただくことになった。そこには,合気道七段で自らの道場も開いている,Dr. Donald Enokiという方がおられる。スティーブの話の中にときどき出てくる人。現在75歳。教育学が専門の大学の先生だったようで,スティーブは是非僕に会わせたいと言ってくれた。

これもまた武縁である。

ネットで検索してみると,Dr. Enokiの合気道はおそらく,心身統一合氣道である。ご覧の通り,心身統一系は,「あいき」の「き」の字が「気」でなくて「氣」というところが特徴。Dr. Enokiの道場もそうだったので,たぶんそうではないかといろいろと辿っていったら,やっぱりそうだった。

合気道にもいろいろと流派があって,一応,本家本元の本流は「合気会」である。合気道創始者の植芝盛平の曾孫の植芝守央先生が現在の道主。これが普通一般の合気道的合気道。会員の規模も一番大きいのではないかと思う。これに次ぐのが,塩田剛三先生が分派した,「養神館合気道(養神会)」で,この養神館系の道場も多い。この二つに比べておそらく規模は小さいけれど有名どころでは他に,乱取り組手をやる「昭道館合気道(富木流,合気道協会)」というのもある。そしてもう一つが「心身統一合氣道」である。

心身統一合氣道会は,藤平光一という人が分派した会で,「氣」の字にこだわっている通り,「氣」を重視している(らしい)。実際のところ,僕はよく知らない。合気会の合気道は少し体験したことがあるし,養神館の本や動画も何度か見たことがあるので,だいたいイメージはあるけれど,この心身統一系はよく分からない。「氣」を重視ってのは,どういうことなんだろう。

だから,Dr. Enokiに会うのが楽しみである。

7/26/2014

T.Y.Pang

滞在103日目。7月26日(土)の午前8時30分。

スティーブの太極拳の系譜について誤解していた。改めてちゃんと教えてもらったところ,スティーブの師匠は,T.Y.Pangという人であった。この人は,今の楊式太極拳を完成したとされるYang Chengfu(楊澄甫=楊露禅の孫)の直弟子であるDong Yingjie(董英傑)の弟子である。

つまり,系譜を辿れば,楊露禅→楊澄甫→董英傑→T.Y.Pang→スティーブ,という具合である。

Dong Yingjieと以前言っていたので,その孫筋がハワイを中心に展開している薹家太極拳だと勘違いしていた。Pang先生も以前ハワイで教えていて,今はワシントン州のオーカス島に住んでいる。

Pang先生についてスティーブは,この人は本物だ,と言っていた。最初に2年間習っていた太極拳の先生とは比べものにならないくらい凄くて,一度Pang先生の演武を見たら,その元の先生のところに戻る気がしなくなった,とも言っていた。

ネットで検索していたら,あるイベントチケットの販売サイトに,シアトル歴史・工業博物館で開催されたPang先生の演武会の案内があった(http://www.brownpapertickets.com/event/6096)。そこに簡単な説明があり,このPang先生そしてスティーブの哲学が端的に示されている気がした。だいたい次のようなことが書いてあった。

「太極拳とは護身術,フィットネス,リラクセーションの方法と思われている。それも間違いではないけれど,それが本質ではない。太極拳というのは,気づきをもって,生命力ある身体と静かで平和な精神に至らしめるものであり,健康で幸せで平和であることが,スピリチュアルな成長をもたらす。真の太極拳家の動きはダンスとなり,そのダンスにはスピリチュアルな意味で生命の力が身体化している。心が振り付け師であり,身体がアーティストであり,生命の力が音楽である。だから,太極拳とはスピリチュアルな生命のダンス(A Dance of Spiritual Life)である」

道教的な考えがベースにあることは間違いない。そしてスティーブは,稽古でまさにこのことを伝えようとしている。Community Centerに習いに来ている人の大半はフィットネスやリラクセーションのつもりかもしれないけれど,その中で懸命に,この太極拳の本当の意味を伝えようとしている。

世の中によくある制定の簡化24式太極拳とかの教室やスポーツジムとかでやっている太極拳クラスのように,ただ動きだけを教えよう(動きさえ正確に伝われば良い,ただ動きを正確になぞることが最重要である)としたり,あるいは,公認の級段位を取るとか表演大会で勝つとかするために見た目に綺麗に演じることが最善だと考えていたりする指導者とは,理解と志の次元が格段に違う。

いやもちろん,そんな本来の意味なんてどうでもよくて,ただ単にフィットネスやリラクセーションの一つとしてやりたい人にとっては,世の中によくある教室で良いわけであって,要するに,世の中というのは需要と供給がマッチしている,ということか。

Pang先生は,1987年に"On Tai Chi Chuan"という本を書いている。読んでみたい。

7/25/2014

ハイシーズン

滞在102日目。7月25日(金)の午前5時20分。

このところ,またぐっと,日本人観光客の姿が増えてきた。この週末から来られる方も多いだろう。そこかしこに日本語が飛び交い,耳に届く歓声や,子どもたちの叫声は,どれも日本語。歓声や叫声が日本語ってのはおかしいか。では,日本人による歓声と叫声。声の出し方が,なんとなく,他の国と違う。リトルジャパン。リトルトーキョー。

これもハワイの一つの顔であり,特に盆暮れは,日本人で埋まるほどだろう,きっと。昨年は8月初旬に来たけれど,そのときは日本人が多いという気はあまりしなかった。それはたぶん,自分も飽くまで1週間ぐらいの旅行客の一人だったからだろうと思う。その短期の旅行客の目から眺めるハワイと,こうして4月から3ヶ月以上住んで眺めるハワイとは,きっと見るところが違ってくるはずだ。例えば,青く澄み切った海や巨大な木々や色とりどりの花に,道々見とれることはもうない。そのどれも美しいけれど,感動して立ち止まるということはない。そういう客観的かつ冷静な目で,一切の価値判断をせず,マインドフルにこのハイシーズンのホノルルの様子を楽しみたい。

一つには,観光で来ている人たちは,もうとにかく身体全体で,つまり全力でこのヴァカンスを楽しもうという,意気込みからして違う。まずもって,早朝から夜遅くまで,遊んでいる。当たり前だけど,せっかくの短い滞在期間をフルに遊び倒そう,ということだ。うちの子どもたちはサマースクールがあるし,僕自身は仕事があるし,奥さんは家事があるし,早朝から夜遅くまで遊んではいられない。

ワイキキに繰り出せば,きっと,みんなそこかしこのお店で高い食事してるんだろうなぁ,うらやましいなぁ。特にあの,サーフライダーとロイヤルハワイアンの間の,チーズケーキファクトリーの前は通りたくない。というのもあそこ,オープンスペースだから,ワイン飲みながらおいしそうな食事をしてるのがよく見えて,なんだかとっても楽しそうで・・・あ,マインドフルに観察するんだった。いかんいかん。

7/24/2014

続・身体の中心

滞在101日目。7月24日(木)の午前3時20分。

身体の中心(center)はいくつもある。以前も言っていたけれど,昨日の稽古でスティーブが改めて話していた。

身体のバランスの中心は尾てい骨であり,身体のエネルギーの中心は下丹田である。これに加えて,身体の物理的な重心もある。重心をどちらの足にどのくらい乗せて身体という質量のある物体の中心がどこにあるかというときのcenterと,バランスを取る上での身体全体のcenterは違う。もちろん,非物理的な意味で下丹田に気(生命エネルギーあるいは息)を集めるというときのcenterと,物理的な意味での重心やバランスのcenterとは違う。

しかしいずれにせよ,どのcenterも腰腹周辺にある(上下左右から見て腰腹周辺に位置する)ことは間違いなく,ここの辺りを見つけて感じながら動く。四肢はそれに柔らかくつなげつつ,全体で統合的に連動して動く。そのcenterを軸に,手の指先から足のつま先までをつなげていく。

太極拳は,こうして身体の芯(心)や軸,あるいは根を練るボディワークなのだ。芯や軸,あるいは根を持つことが,平たく言えば,心の安定につながる。芯や根は,気を逸らせる様々な思考に振り回されずに戻ってくるための錨の役を果たす。今ここにある身体こそが,私の住む家であり,外出していると感じるのは幻想であり,すでに家に帰っていて家にいるのだから,その家にただ安住するのみ。たしかティク・ナット・ハン師の『ブッダの幸せの瞑想』にあったように,私はすでに自分の家にいるのだ。この当たり前を当たり前に感じられるためには,身体に芯や根がなければならない。

道教に由来する太極拳は,この芯や根を練るためのメソッドである。

7/23/2014

夏休み

滞在100日目。7月23日(水)の午前4時30分。

ホノルルに来て100日が経った。3桁突入。ホノルル以前は,せいぜいが海外は旅行で10日間ぐらいだったわけだから,それに比べると驚異的な長さの海外生活である。

日本は7月19日とか20日ぐらいから学校が夏休みなので,今週から小学生とか幼稚園生ぐらいの子どもを連れた日本人家族がグッと増えた。うちの子どもの通っているサマースクールは,これまでうち以外は全員ローカルのアメリカ人だったけれど,今週から日本人の子も入ったらしい。

日本人観光客,これからお盆にかけてさらに増えていくんだろうなぁ。そういう,ハワイの観光客事情の変化も,つぶさに観察しておこう。いずれにせよ,これだけ来るんだから(これからもっとさらに来るんだろうから),ここは日本かと言うくらいの勢いである。

以前,奥さんに,「ハワイ(ホノルル)には,中華街(China Town)はあるけれど,日本街ってないね」と話したら,「ここ(ワイキキ)自体がもうほとんど日本街みたいなものだからじゃない?」と言っていた。慧眼である。

腰はまだ若干違和感がある。小走りぐらいはできるようになったけれど,細かい動きはまだ自由にできない。長く椅子に座ると突っ張ってくる。なかなか完治はしないものだなぁ,ギックリ腰ってのは。

7/22/2014

続・ギックリ腰

滞在99日目。7月22日(火)の午前3時40分。

ぎっくり腰もだいぶ回復し,歩けるようになったので,太極拳の稽古に参加した。走れないし腰をかがめないけれど,ゆっくり練る太極拳なら問題ないだろうと踏み,一応,スティーブには稽古の前に事情を説明して,稽古した。

良い。

普段から腰(尾てい骨)を意識するように言われているけれど,それ以上に意識しながら練ることができた気がする。腰が痛いので,これ以上痛めないよう,否が応でも意識が行く。その上で,手足の4点をどう動かすかに全神経を注ぐ。

昨日また,身体感覚の表現として面白い言い方をしていた。手の指先から足のつま先までをつなぐ感じだ,と。なるほど。尾てい骨を中心に(尾てい骨を介して),手から足までの感覚をつなげる。これは,以前に言っていた,尾てい骨を中心に手足の4点を意識する,というのと同じだ。

それから,よくよく言っていたのが,やはり,無理な力を使おうとしない,ということ。蹴りも,足先で蹴るのではなくて,膝で蹴る,と言っていた。もちろん蹴りは膝で蹴ることは空手も同じ。ただ,足先(足首)に力を入れようとすると,必然,足全体に力が入る。だから,膝を使って,足先はリラックスして蹴ると良いと言っていた。足首を柔らかく。

いやしかし,どこか身体が痛いと,そこに意識が行き続ける。痛みは無論,無い方が良いし,慢性的な痛みは辛い。ただ,こうした痛みは,たしかにマインドフルネスの対象に持ってこいであることは間違いない。痛い痛い嫌だ辛い大変だどうしよう最悪だもうダメだ,ではなく,痛い身体に気づきただ痛いことを痛いと観察する。嫌だ辛い大変だどうしよう最悪だもうダメだは,思考,すなわち単なる脳の分泌物であり,ここのところを区別して,そういう思考に引っ張られない。ただ痛みとともに在り続ける。

うん。痛い。確かにまだ腰が痛い。

7/21/2014

ギックリ腰

滞在98日目。7月21日(月)の午前10時30分。

一昨日の午前中に,ギックリ腰になった。こういう症状は生まれて初めてではないけれど,今までで一番重症。そのせいで,昨日の日曜日は一日中ベッドで寝ていた。横になっていると,その分,如実に治っていくのが実感できる。だから,とにかく,ひたすら横になったままでいた。

だから,ホノルルに来て毎日欠かさず書いていたブログが一日飛んだ。残念。まぁ良いけど。

去年の秋に2週間入院したときのことを思い出した。ただ何もせず横になっているというのは,いろんな思考や感情が現れては消え,現れては消える。マインドフルネスの訓練にちょうど良いやと思い,鼻腔に意識を向けて呼吸を味わってみる。が,すぐに脳が思考を分泌し始める。横になっているものだからそのうち眠くもなってくる。人間というのはかくも散乱し昏沈する。

こういうときは,ある考えたいテーマについて,思考や感情に引っ張られず,マインドフルに徹底的に考える,というのが良いかもしれない。マインドフルに思考する。思考がクリアになる。去年の入院のときもそうだった。だから今回も,横になりながら,落ち着いて考えたいとずっと思っていたことを,徹底的に考えてみた。ちょうどこの時期に考えようと思っていたテーマだったので,区切りとして,ちょうど良かった。

ところで以前に,スティーブが足の指をくじいたときに,こう話したのが印象的だった。

本当は相当に痛むようで,太極拳の教授は無理なんじゃないかと思うくらいの様子だったけど,でも,稽古中はそういう素振りは見せずに,問題なく終えた。このときに,「このケガが,自分の太極拳(修行)にどういう意味があるのか,考えてみよう(何か意味があるはずだ)」というようなことを言っていた。

今このときにこのケガをしたことには何か意味があるはずだと捉える。一見ネガティブだと思えることにも,ポジティブに捉える。陰を陽に転ずる。すべては調和している。太極拳とは,そういうものである。

このギックリ腰から,身体的な気づきが生まれる。

と格好をつけて言わなくても,とにかく,腰がダメだと歩けない動けない,ということがたいへんよ~く分かった。今更ながら,腰は大事である。

7/19/2014

過去と未来

滞在96日目。7月19日(土)の午前6時30分。

思えばずいぶん長くここに住んでいる。はずなのに,そんなに長く住んでいる感じがしない。人間の記憶というのは曖昧だ。過去は読んで字の如し,過ぎ去っていく。つまり,過去はあるようで,ない。

後1ヶ月もすれば帰国する。つい帰国後のことをあれこれ考えてしまう。しかしどの考えも結局まとまらない。未来は読んで字の如し,未だ来ていない。つまり,未来も,あるようで,ない。

あるのは,今ここだけだ。

過去のことを振り返ろうとしたり未来のことを思いやろうとしたりすると,陽炎のようにぼんやりしていて,結局,掴みどころがなく,あやふやに終わる。特に未来のことを考えるとネガティブになるから良くない。それは,ついリスクを考えてしまう人の性だ。降りかかるかもしれない危険を事前に察知しようと,あれこれとサーチしてしまう。

だからまぁ,過去や未来のことを考えても,所詮,無駄だということである。今ここにしかいないのだから,今ここにいることだけを求める。心は過去や未来に飛ぶけれど,身体は飛ばない。身体があるのは,今ここだけである。

身体がある今ここは,ホノルルである。間違いなくホノルルにある。

7/18/2014

知り合う

滞在95日目。7月18日(金)の午前5時。

ここのところ,お店やコミュニティセンターで,ローカルの人と話す機会が増えてきた。たぶん,僕自身がこの環境にさらに慣れてきて,英語を話すローカルに怖じ気づかなくなってきたのかもしれない。

主観的にはそんなに大きな変化はないのだが(未だにやっぱり,ローカルの人と話すときには多少緊張するというか身構えてしまう),慣れの微妙な変化が,話す機会を増やしているのかもしれないと,ちょっと想像する。ただ,まぁしかし,たまたま偶然かもしれないけれど。

もう少し長くいられれば,さらに地元の人とも知り合いになれて,さらに英語を話す機会が増えて,もう少し英語がスムースに聞き取れて話せるようになるかもしれないなぁと思うと,来月帰国するのが残念に思えてきた。

特に,毎週通っている太極拳は,コミュニティセンターでやっているので,このセンターに来ている人は,僕のような中期滞在の人もけっこういるみたいだけれど,長期滞在の人や地元の人が当然,多い。昨日は,いつもセンターの端っこの椅子に座って見てる,おばあちゃんとも話をした。いつも同じところに座ってるので,毎回来るときに挨拶をしていたから,帰り際に声を掛けてくれた。

こうして人は,少しずつ地元に馴染んでいくわけである。知り合いも徐々に増えてくる。

長く住めば住むほど,対人的な葛藤も多くなるだろうから良いことばかりではないし,長く住むことになれば人と人との結びつきということをあえて意識することもないかもしれない。こうして4ヶ月間だけ住むという特別な状況が,人と知り合うという,普段通りの平凡な行為を,特別な行為として意識させる。

日本に住んでいると,いつでも会えると思うから,人との縁をついおろそかにしてしまう。

帰国したら,ハワイに今度来るのは果たしていつになろうか。そう思うと,知り合うことができた人とはもう会えないかもしれない。縁を大切に。大切に。

7/17/2014

ラハイナヌーン

滞在94日目。7月17日(木)の午前4時。

昨日は,ラハイナヌーン,であった。太陽は正午にちょうど一番上に上るわけだが,ラハイナヌーンとは,その太陽がお昼に「真上」に来る。そのため,まっすぐに立っているものには,影ができないという現象,というかそういう時間帯のこと。

ネットで検索すると,ラハイナ(lahaina)の,laが太陽,hainaが灼熱,ということらしくて,要するに「灼熱の太陽が降り注ぐ正午」という意味。北回帰線と南回帰線の間にある国々では,年に2回起こる。ハワイはちょうど北回帰線に近いところにあるので,春と夏に2回起こる。で,今回は夏の方。というのも,春の方(5月26日)をついうっかり見逃したので,今回はちゃんと日程と時間を頭に入れていた。

7月16日12時37分。

大きな建物だとか電柱だとか樹木だとちょっと分かりづらいけれど,例えば,消火栓だとか交通標識だとかだと,そんなに大きくないので,そういう物体の影を見ると,おおなるほど真上に太陽が来ている,というのが分かる。確かに,影がない!奇妙である。

ちょうど昨日は太極拳の稽古が直後にあったので,若干興奮して,スティーブに,今日は何の日か知っていますか,ラハイナヌーンですよ,太陽が頭の真上から注いでますよ,影がありませんよ,と話したけれど,ふうん,ああそう,というつれないリアクションだった。

まぁ,ハワイ生まれの人にとっては,こんなこと,生まれてからずっと当たり前のことだから,珍しくもなんともないわけだな。赤道に近いから,年がら年中,ほぼ頭の上を太陽が通っているので,今日は正午にちょうど真上に来る日だとしても,普段と大差なく(実際,ほら影がないよと言われてみないと気がつかない程度),ましてや毎年春と夏にそうなるわけで,何十年もハワイに暮らすローカルにとっては,まぁ,ホント,どうでもよいことなわけである。納得。

でも,ほんとに真上に来るのはわずかな時間である。そんなに長い間,影がないわけではない。地球はだから,結構速く,動いている。

7/16/2014

ティンシャ

滞在93日目。7月16日(水)の午前3時30分。

先日シンギングボウルを買ったチベット雑貨のお店で,またもう一つ買ってしまった。今度は,ティンシャというベル。チベタンベルあるいはチベタンシンバル。リーンと,風鈴のような涼やかで澄んだ音がする。気持ちが良い。

しかし,チベット仏教は,いい音のする法具を作るなぁ。ポクポク鳴らす木魚とか,日本のお寺にある色んな楽器とはまた違う方向性。

お店の青年に,こういうのもあるよと,振って鳴らす鐘(あとで調べたら,ガンターというものらしい)をすすめられた。あと,ドルジェという法具も(笑)。うむ,まぁ,確かにどれも魅力的であるが,あんまりモノばかり買っても,ただ坐って瞑想することの方が本質だから,買うのは止めておく。

とりあえず,稽古の始めと終わりにティンシャを鳴らすのは,なんとなく気持ちよさそうだと思って,買った。本当に,澄んだ良い音がする。

チベット雑貨屋の青年,僕が間を置かずに二度も来たものだから,大した買い物もしていないのに,チベット音楽のCDを一枚おまけでくれた。いい人である。

7/15/2014

パンケーキ

滞在92日目。7月15日(火)の午前3時30分。

例のEggs'n Thingsが昨日,ストロベリーパンケーキを3.50ドルで出してることを奥さんが新聞の広告で発見し,せっかくなので行ってきた。店の前の看板にはわざわざ掲げてなかったので,この価格での提供は,新聞広告を見るような(おそらく比較的長期滞在の)人だけが分かる仕組みになってる。

テーブルでパンケーキを待っていると,太極拳で一緒のおばあちゃんが入店してきた。太極拳でよく話すおばあちゃんだ。たしか80歳のときに独りでホノルルに移住してきて,今84歳。太極拳も欠かさず来て稽古している。挨拶したら,「あら,あなたももしかして今日のストロベリーパンケーキ食べに来たの?」と,正鵠を射たリアクション。さすが。

というか,84歳になって,お一人で,甘くて巨大なパンケーキを召し上がりに来ることが,すごい。お元気である。何よりである。

最近太極拳の参加者が多くなって,スティーブが遠くに行ったり人の陰になったりして,よく見えなくて(聞こえなくて)やりにくい,とぼやいておられた。確かにその通りである。特に月曜日の人数が増えた。でも,ここはホノルルといってもワイキキだから,人の出入りは多いだろう。僕も来月にはいなくなる。

おばあちゃんには,いつまでもスティーブの太極拳を続けてもらいたい。

7/14/2014

足で立つ

滞在91日目。7月14日(月)の午前5時。

ワールドカップ決勝,ドイツ対アルゼンチン戦。結果は,延長後半,ドイツの華麗なトラップ&ボレーシュートが決まり,1-0で勝利。拮抗した好試合だった。グループリーグから決勝トーナメントまで一ヶ月間,楽しく観戦。

ハワイ時間だとちょうど,試合が午前中の6時以降に集中していたので,時間帯的に良かった。たぶん,日本だったら深夜のはずだから,寝不足他で,ここまで観られなかったと思う。おかげで,ワールドカップという大会を,じっくり楽しむことができた。4年後に期待。

さて,そうして朝9時から11時過ぎまで決勝戦を鑑賞し,午後からはビーチに出かけた。満潮時だったのか,ずいぶん潮が高く,波も高かった。

こういうとき,海の中で立って(底に足を付いて)バランスを取るのはとても難しい。泳いでいたり,浮き輪で浮いてたりしたら関係ないけど,立っていようとすると,簡単そうでなかなか足腰の筋肉を使う。それもランダムに波が動き,そのせいで底の砂も動くから,それに対応して細かい力をたくさん使う。ちなみに,なんでそんな状況で泳がす浮かばず,あえて立っているのかというと,二人の子どもが安全に遊ぶのを見守るためである。立つ,という鍛錬をしているわけではない。ビーチに来てまで鍛錬するつもりはない。しかし,結果的に,足と足の裏への意識は高まる。平地で立つことがいかに安定的かを改めて知る。

おかげで足を攣った。

攣りやすさは父方からの遺伝だと諦めていたけれど,歳も取ってきたから,この先は食生活やフットケアで,なんとか予防したいものである。

7/13/2014

90日

滞在90日目。7月13日(日)の午前3時30分。

今日でホノルルに来てちょうど90日。滞在予定の4分の3が過ぎた。後約1ヶ月で帰国する。ここでの生活にずいぶん慣れてきたので,今度は逆に,帰国して日本で過ごすことの方が現実感がない。空気に馴染むというのはこういうことか。

しかし,馴染むとは言っても,さらに長期に渡って住む,あるいは,日本に帰国することはない,ここに死ぬまで住む,という状況であればまた全く違う心理になるんだろうなと想像する。想像するだけだから実際にはどんな感じか全く分からないけれど。

昨日,ワールドカップの3位決定戦,結局,ブラジルはまた0-3で,大敗とは言わないまでも,完敗した。1-7のショックから抜け出せないというか,もう,たぶんシステムが崩れちゃってるから修正が効かないんだろうな。テンションも下がっちゃってるし,もうヤケになってるだろうし。

それで,今日は決勝。ドイツ対アルゼンチン。下馬評では断然ドイツ。さて,どうなるだろうか,お楽しみである。

関係ないけれど,昨日,クヒオビーチの奥の方,動物園の南側,水族館の手前のビーチまで行ってみた。いやはやこちらは波が高い。そして,その波の激しく高い浜で,ローカルの子どもたちがアグレッシブに遊んでいる。もう,波にもまれて何回転もしている。うけけけけと笑いながら波にダイブする。その波とともに僕の足に,何度も勢いよく絡んでくる(=押し流されてくる)。全員,喜々として「sorry!」とか良いながらまた波にもまれに行く。たくましい。

7/12/2014

シンギング・ボウル

滞在89日目。7月12日(土)の午前5時。

昨日,アラモアナとカカアコの間にあるワードウェアハウスにあるチベットの雑貨屋で,singing bowlを購入した。一番小さいヤツ。棒で椀の縁をなぞりながらこねると,ワンワンと,とてもいい音が出る。結局これもただのモノだから,買う意味はあるのかと一週間以上迷ったが,買って良かった。いい音がする。

置いてあった店の棚には,たしかmeditation singing bowlと書いてあった。ネットで検索すると,Tibetan singing bowl meditation などど出てくる。チベット仏教の瞑想用の法具。大きさも様々。一見すると,日本の仏壇にも置いてある,あの,チーンと鳴らす鉢形の鐘に似ている。あれは,正式名称は鈴(りん)というそうだ。たぶん,鈴はもともとこのsinging bowlだったか,あるいは,singing bowlと鈴は同じものからそれぞれ派生したのではないかと思う。でも,日本の鈴のふちをぐるぐるなぞったら怒られそう。いや,もしかしたらお寺などでは,宗派によっては,それこそ大きな鈴のふちをなぞって,ワンワンという音を鳴らすこともあるかもしれない。・・・よく分からないけど。

お店の人に教わったやり方は,左の手の平を広げてそこに椀を載せ,右手に持った木の棒(心棒)で一度叩いて鳴らしてから,椀の縁をその棒でなぞる。そうすると,心地よい倍音が響き,手の平にはその振動が伝わってくる。耳と手で,音を感じる。そういえばちょうど椀の載っている手の平には,労宮という経穴がある。ここからエネルギーが出入りする。手の平とはそういう場所だ。(無論,物理的な何かが出入りするわけではないけれど,そういうイメージを持つのは良いことだ)

椀の回りには,チベット文字というのかしら,たぶん,何かしらの経が書かれてる。心棒でなぞることでその経を唱えていることになるのだろう。それから,椀の中には,これもたぶんだけれど,いわゆる,目と目の間にある「第三の目」の絵が描かれている。

チベット仏教についてはあまり知らなかったけれど,調べていくといろいろと興味深いことが沢山ありそう。

ところで,このワードウェアハウス,あんまり繁盛していないそうだ。このチベットのお店も,12月で畳むらしい。残念である。確かに言われてみれば畳んでる店も多いし,人通りも少ない。歩いている客はほとんどローカルばかりで,観光客はまばらだ。これでは確かに,経営は厳しそう。このチベットのお店の人は,まだ若くて優しげなネパール人青年で,日本の名古屋に縁があって3年ぐらい住んでたそうである。お兄さんと二人で営んでいるこのチベットのお店は,畳んで別のところに行くらしい。二人が食っていけるぐらいは儲かると良いなと願う。幸せでありますように。

7/11/2014

3位決定戦

滞在88日目。7月11日(金)の午前4時30分。

ドイツに大敗した開催国ブラジルが,明日,3位決定戦に臨む。準々決勝で負けたなら,はいそれまでよサヨウナラ,なので,代表チームが再び試合をすることは大会中にないわけだが,準決勝で負けた場合は違う。こうして,3位決定戦が待っているのだ。

屈辱的大敗をしたブラジルは,明日の3位決定戦で,どこまでどうやって戦うのか。サッカーの戦術だとかフォーメーションだとか選手起用だとかは,素人だからよく分からないけれど,選手一人一人が醸し出す気持ちを,じっくり見てみたい。

相手はアルゼンチンにPK戦までもつれて負けたオランダである。最高のパフォーマンスを発揮しない限り,本来のブラジルとて,負ける可能性は十分に高い。今のブラジルが戦う相手としては,まさにこれ以上ない最適なチームである。

願わくば,ブラジルに勝って欲しい。別にブラジルチームのファンでないし,贔屓のブラジル人選手がいるわけでもないけれど,あんな負け方をしたから,ついなんとなく応援してしまう。

むせび泣いていたブラジルの少年たちのためにも,勝って欲しい。日本の少年たちは,日本の代表チームが負けて果たしてむせび泣くか?絶対に泣かないぞ。いや,泣くほど入れ込んでいる少年もいるかもしれないけれど,普通は,ああ負けちゃったね,ぐらいあっさりしたもんだと思うぞ。

それぐらい,ブラジル代表チームってのは,ブラジルの少年たちにとって大切な憧れなのだ。負けないスーパースターたちなのだ。代表チームが負ければ,大人は暴れだし,子どもはむせび泣く。そのくらい,ブラジル人ってのはサッカーが生活に染み込んでいるのだ。サッカー大好きなのだ。文化なのだ。

日本も,このくらい入れ込めば,ベスト8ぐらいは望めるんじゃないかなぁ。ワールドカップのときだけじゃなくて,もう,文化として地力が上がってこない限りは,せいぜいがワールドカップ出場するぐらいが関の山かもしれない。

さりとて,一方のオランダだって,だから,むせび泣くオランダ少年もきっといたはずだ。なんでPK戦で負けるんだ,試合自体は0-0で負けてないのに,と悔し泣きしているに違いない。ただ,まぁ,屈辱的な負けではない。PK戦だから,仕方がない。サッカーというゲームには負けていない。オランダは開催国ではない。自分の国で1-7は,きついだろう。そのへんの事情が,同じく準決勝で負けて3位決定戦で相まみえるブラジルとオランダは,違う。

オランダの監督は,3位決定戦なんてやるもんじゃない(やりたくない)と言っている。ベスト4なのに,ここで負けたチームは2連敗で大会を終えることになるからだ。非常に後味が良くない。なるほど,ごもっとも。だからたぶん,この3位決定戦,どちらも負けたくないだろうなぁ,きっと。

7/10/2014

身体の中心

滞在87日目。7月10日(木)の午前4時20分。

昨日のスティーブの稽古で,また面白い発見があった。意識の中心と身体の中心は違う,という話だ。

意識の中心は下丹田である。ここに気を集め,ここからエネルギーを発する。一方,身体の中心は下丹田ではない。尾てい骨である。尾てい骨を中心に身体のバランスを取る。ここのところを間違えてはいけない,と。

ただ,下丹田と尾てい骨を無理に分離する必要はない。腰腹は一体と考えればよくて,あるいは要するに腰腹辺りが重要だということで,腰腹を中心に意識することには変わりはないからだ。細かいことを言えば,身体の軸は尾てい骨にある,ということだ。

身体の軸あるいは芯は,尾てい骨を捉え感じながら,これを立てて,これに背骨の一つ一つが力を使わずに自然に乗っかっているような状態でもって,できあがる。力を入れて無理にまっすぐになろうとしない。自然に軸を感じていくようにする。そう。強為ではなく云為である。

しかし,これは言葉では簡単だがやってみると難しい。つい尾てい骨が反りすぎたり倒れすぎたりして,寝てしまう。ここで,寝ないように立てようとすると力が入る。ここに力が入ると,身体全体が強ばってしまう。昨日はだから,「Shintaro, too much strength! Too much!」と指摘された。いや,まったく意図してないのに,つい力が入ってしまう。太極拳はそうではなく,尾てい骨を感じながら,Gently and Softlyにやるのだ。

尾てい骨を中心に軸がしっかりとできると,まるで無重力(Zero Gravity)のようになる,とも言っていた。その感じは,なんとなく分かった。尾てい骨を中心に,自然に背骨が重なり,足に体重がしっかり乗る。この感じのことを言っているのだ。しっかりと軸を作り,体重を片足に乗せると,まるで無重力のように,その他の四肢は自由に動く。このことを盛んに言っていた。

しかし,これまた,この状態を始終維持しようとすると,無理に力が入ってしまう。つまり,しようと頑張るとダメなのだ。意図してなろうとすると良くないのだ。自然にそうなるように,練っていく。ただそれだけしかないような気がする。やろうと思ってすぐにできることではない。だから武術は奥が深くて,面白い。

7/09/2014

ベロオリゾンテの屈辱

滞在86日目。7月9日(水)の午前3時30分。

ワールドカップ準決勝で,ブラジルがドイツに大敗した。1-7。

これは野球の試合結果ではない。サッカーである。しかも,世界ランキング2位と3位の試合である。世界最高水準のサッカーの試合のはずである。週末の土手でやってる草サッカーの試合ではない。歴史的大敗という他に表現のしようがない。

もう早速,メディアでは,「ベロオリゾンテの屈辱」と命名されている。イージーだけれど,今回の状況にぴったりの分かりやすい命名。1950年の自国開催の時,優勝を逃したウルグアイ戦の敗戦を「マラカナンの悲劇」というらしいけれど,それから64年,ブラジルにとっては,その悲劇を乗り越えようというのが一つのキャッチコピーだった今大会は,果たして,乗り越えるどころから「屈辱」に終わった,というわけだ。

試合中すでに,ブラジルサポーターは,大人も子どもも,本当に涙を流して泣いていた。特には,子どもがむせび泣く姿は,胸が痛む。たぶん,ブラジルはこれで,誰も倒せないようなサッカー最強国に生まれ変わると思う。涙を流した次世代が,ブラジルを変えるはずだ。そう祈る。

試合をライブで見ていたけれど,2点目を入れられてからは,これこそまさに,緊張の糸が切れたかのような崩れっぷり。そこからはもうまるで,大人と子どもの試合。

ここまでのブラジル戦,いつも異様なテンションだった。選手は大声で国歌を叫ぶように歌い,試合に勝てば喜びと安堵のためか,泣き崩れ,神に祈る。試合中も,全体的に興奮した様子で動き回る。それもそのはず,どでかい球場全体が黄色く染まって,地鳴りのような声援が送られれば,サッカー王国と言われる開催国の代表としては,テンションが上がらない方がおかしい。

準々決勝で攻撃の要であるネイマールが腰椎骨折したため欠場,守備の要である主将チアゴシウバも累積警告で出場停止。さぁ,これで強豪ドイツと戦うという状況は,勝たなければならないブラジルとしては,まさに背水の陣だっただろう。そんな異様なテンションにあるとき,先制点さらには追加点を取られるという展開は,つないでいた緊張の糸がぷっつりと切れてもおかしくない。ここからは,これが本当にあのブラジルかと思えるような崩れっぷり。

街では,バスに放火だとか略奪だとかが起こってる,なんて話も聞こえてくる。マジで?いやそれぐらい,国民も混乱するような,それこそ国技と言えるサッカーでの屈辱的大敗だったからね。

どう復活するか。4年後が楽しみである。

7/08/2014

ルール

滞在85日目。7月8日(火)の午前4時40分。

先週はノースショアに行っていたので,太極拳の稽古を休んだ。昨日,約一週間ぶりに稽古をしたけれど,やっぱり,スティーブに習うと違う。

毎朝一人で套路を練るわけだが,武術の稽古は,やっぱり,師に習うのが良い。スティーブに習えるのも,後1ヶ月ぐらい。さて,その後,どうしたものか。

武術は,誰に習うかが重要だ。良師は三年かけて探せ,である。スティーブは,ただ単に健康太極拳の套路を規定通りに繰り返して教えるのではなくて,太極拳というのはどういう武術なのか,どこにどう意識を持ってきて,身体をどう使うものなのか,それによって身体や意識がどうなるのかを,丁寧に根気よく教えてくれる。人柄もこの上なく素晴らしい。

良師である。

一つ,なるほどと思えることを言っていた。ルール(原理原則)というのは破られるものなのだ,と。

例えば,たぶん弓歩という立ち方なんだと思うけれど(制定のように足の幅は広くない),このとき後ろ足を(前足に対して)90度外に開く,と最初は教える。ただそれは腰を開くことを教える上での分かりやすいルールであり,絶対ではない。実際は86度ぐらいが良く,人によって違う,と言っていた。だから,ルールというのはいつも絶対的に正しいわけではなくて,何が本当に良いかは結局,ルールに基づきつつ,ルールを越えて,自分で経験して見つけていくしかない,という話だった。上記の足の位置で言えば,ベストなポジションを自らの経験で探っていくことが大事だ,ということだ。

ルールに固執してはいけない。ルールはルールだけれど,それにこだわってはいけない。武道的に言えば,固執とはまさに居着きである。ルールに居着いてはいけない。

7/07/2014

怒り

滞在84日目。7月7日(月)の午前5時。

昨日,きわどいタイミングでバスに乗ろうとしたら,先に行かれてしまった。手を上げて乗る意思を示している僕と運転手と目線が合ったときには,バスはまだ発進してなかったぞ。その目線を切って,彼はあえて無理だとこちらを手で制して,アクセルを踏んだ。このとき逆に,ドアを開けて,乗せてくれても良かったはずだ。

こういうとき,怒りの感情がふつふつと沸く。たぶん,誰しも,沸く(んじゃないかと思う)。しかし,ここで感情にそのまま引っ張られて,ついていって,行動してはいけない。感情が行動を動機づける力は強い。特に怒りはその力が強い。ふつふつと沸く主観的な感情とともに身体もふつふつと沸く。

行動したい。つまり,何かしら悪態をつきたい,願わくばその運転手に仕返しをしたい。心の中で悪態をつく。心の中でその運転手に仕返しをする。

ここでそういう感情や思考のままでいると,いつまでも嫌な気分のままだし,さらには,無関係な周囲の他者へ攻撃的な態度になったりしてしまう。傍迷惑なのだ。

だから,身体を含めて自身の感情や思考を客観的に観察する。ただ観察するだけで,それに乗っかってはいけない。また,そういう風に感じたり思ったりすることを価値判断しない。ただ観察するだけ。ふつふつと煮えたぎる感情,わなわなと震える身体,それに伴って溢れ出てくる思考。どれもただ観察する。追いかけない。

そうすると,じきに怒に伴う感情や思考や身体は収まっていく。収まっていくそれを追いかけず,収まっていくところをただ観察する。追いかけない。判断しない。去っていくのを客観的に観察する。そうすると,ただ在る自分に戻る。太陽に照らされ,風を受けて,呼吸する,今在る自分に戻る。鼻を通して呼吸する身体へ戻る。

バスが行ってしまうことは,ときに,ある。そういうことに目くじらを立てて,いつまでもこだわっていても仕方がない。一瞬腹の立つことは致し方ない。でも,それにこだわって(思考を続けて)いつまでも嫌な気分でいるよりも,大らかにこだわらないでいる方が,結局,そのときその後,気分が良い。

マインドフルネスの実践稽古は,こうして,いつでもどこでもできる。

そもそもこうして,怒りの事態をマインドフルネスの実践稽古の時だと認識して,マインドフルネスを実践しようとすること自体が,成功しようがしまいが,マインドフルである。だから,日々,マインドフルであり続けることが,マインドフルネスの実践稽古である。

7/06/2014

チップ

滞在83日目。7月6日(日)の午前7時40分。

パシフィック・ビーチ・ホテルにある,オーシャナリウム・レストランに行った。ワイキキでは有名な,水族館並みの水槽があるレストラン。ビュッフェ形式。

食べ物は,全体的には美味い。ただ,まぁ,ものすごく高い。普段は絶対に行けないけれど,今回は母と弟家族が来ているので特別だ。

ビュッフェに並ぶメニューは,値段の割にそれほど多くない。コーヒー・紅茶・フルーツポンチジュースはビュッフェの料金に含まれているが,それ以外の飲み物は別料金で,値段も高い。人が多すぎて,賑やかすぎて,落ち着かない。どこかの高校の修学旅行の団体も来ていた。

壁のような大きなガラスの水槽で,人魚に扮した女性のダイバーが,中から手を振っている。人魚がエイと戯れている。水槽の中から男性ダイバーが,"Happy Birthday!"と書いた看板を掲げて,水槽近くの子どもの誕生日を祝っている。この値段はだから,水槽見物代なのだ。

提示された請求書にサービス料(チップ)15%がすでに込みになっているにも関わらず,請求書と一緒に,日本人用に作られたチップに関する案内として,「この料金にはサービス料が含まれていません。アメリカでは通常15%のサービス料を別途払う習慣ですから,払いましょう」というようなことがご丁寧に書かれた,ラミネート版が挟まれていた。

これはおかしいと思い,請求書を持ってきたウェイターにこのことを尋ねると,即座に「あああ,これ,間違いです,すみません」ってなことを言って,バツが悪そうにしてそのラミネート版をそそくさと隠した。

・・・・・・・・・・ううううううううむ。

なんだそれ。それで良いのか。良くないんじゃないのか,これ。このときはこの違和感の本質を明確に認識できなかったけれど,後から考えると,これ,とってもおかしいのである。

人によっては,請求書もよく読まず,疑問があっても尋ねずに,案内にしたがって,そのまま合計30%チップを支払わされるはめになるのではないか。危ない危ない。

つまり,状況を勘案すると,意図的に,つまり「わざと」ラミネート版を請求書にさりげなく挟んでいるとしか考えられないのである。というのも,請求書にサービス料が含まれていることは,店のシステムとして当然自明のことであって,それにも関わらず,わざわざ丁寧にラミネートされて作られた案内版まで用意してそれを請求書に挟む,というのは,やっぱりどう考えてもおかしい。チップという,日本人にはなれない習慣につけ込んだ,サービス料の二重取りなわけだ。たとえ意図的でないとしても,そう取られてもしかたのないやりかたである。

いやはや,請求書の内訳やアメリカでの習慣が分からず,それでいて英語で質問できずに面倒くさがって躊躇する日本人の間違いや狸寝入りを期待する商売。仮にそうだとしたら,とてもせこい。

でも,たぶん,店側としては,まったく問題ないんだろう。そもそも,楽しく短い旅行中の出来事だし,後から気がついたとしてもわざわざ訴えることもしない。訴えるほど高額でもない。旅行中の羽振りの良い全体的出費からしたら少額だ。そして,たとえ後で訴えられても店側が負けることはない。というのも,理屈の上では,チップは,別に15%と決まっているわけではないから,ただ単に30%もチップを払う気前の良い日本人,ということで処理されるだけだから。店の説明が良くないと反論されれば,それは英語や習慣を理解しない日本人が悪い,というだけ。

考えれば考えるほど,これが真実だとしたら(いやたぶん真実なんじゃないかと思うんだけど),なんか,つくづく,せこいなぁ,こういうのって(笑)。カモネギ日本人から搾り取れ!

まぁ,しかし,食べ物は,美味しかったので,良しとする。

7/05/2014

パンケーキ

滞在82日目。7月5日(土)の午前5時20分。

Eggs 'n Thingsに行った。ワイキキの超人気店。パンケーキとオムレツが自慢のお店。毎日長蛇の列。この日,母と弟家族が来たので,列に並んで昼時に入店。

パンケーキに山盛りの生クリーム。テレビでしょっちゅうCMをやっていて,常々山盛り生クリームを見せられてきたが,ようやく実物を生で拝見。CMほどではないけれど,たしかにちょっとびっくりな山盛り具合である。

パンケーキが,美味い。

別に甘い物好きとか,スイーツに造詣が深いとか,デザートに一家言あるとか,ましてやグルメでもなんでもないけれど,これは端的に美味いパンケーキであった。柔らかくて少しモチモチしっとりしていて,生地自体がほんのりと甘い。載っている生クリームも,備えつけのシロップ(メープル,ココナッツ,グァバ)も,甘すぎなくて良い。

パンケーキ5枚と山盛り生クリームで,CMを見る限り,こりゃやり過ぎだろ,と思っていたけれど,全然そんなことはない。食べられる。人気の秘密が分かった気がする。ちなみに,日本にも何軒か店が出てるらしい。

しかし,オムレツは,たいしたことはなかった。Eggsと名の付くぐらいだから,さぞオムレツも自信の品なのだろうと期待したけれど,まぁ,美味しいには美味しいけれど,このくらいなら世界中どこでも出されているような普通に美味いオムレツである。驚嘆するような品ではない。

パンケーキには,驚嘆した。

スイーツやデザートに何らこだわりはないけれど,ここのパンケーキならもう一度食べてみたいと思う。

7/04/2014

東海岸

滞在81日目。7月4日(金)の午前3時40分。

昨日,ノースショアからホノルルまで帰ってきた。東の海岸沿い回りで,クアロアランチ(クアロア牧場),カイルアビーチ,パリ展望台で観光して,ワイキキのレンタカー屋に戻る。

ノースショアの田舎道は,車も人も信号も少なく,走りやすい。車が大嫌いな僕でさえ,ライエを抜けた後のクアロアランチまで行く道は,左手に海を右手に山を見ながら,運転していて気持ちよかった。

この東海岸の景色は,乾燥して草木も低く畑や平原の印象が強いH1やH2辺りの景色とぜんぜん違って,とても東南アジア風というか,熱帯風というか,湿っていてそそり立つ山々が鬱そうとしている。緑に覆われた急な山が海のすぐそばに迫っていて,道はその間を走り続ける。場所によっては山の方に分け入って高度も上がる。するともう,ジャングルだ。

だから,車の大嫌いな僕も,ノースショアまでH1とH2に乗って行き,東海岸回りで帰ってきて,良かった。オアフ島のもう一つの顔を,見られた気がする。

ところで,カフクの街の地元のスーパーなんかは,さすがに日本語は一切通じなかったけれど(英語もいまいち聞き取りにくい。田舎なまり?),ポリネシアン・カルチュラル・センターだとか,クアロアランチだとか,北や東の,ホノルルとは真逆にあるところでも,観光地として客を呼び込んでいる場所はもう,しっかり日本語が飛び交っている。

7/03/2014

ポリネシアン・カルチュラル・センター

滞在80日目。7月3日(木)の午前9時。

昨日は,ポリネシアン・カルチュラル・センターに行ってきた。ポリネシアとは,ハワイ,ニュージーランド,イースターの三角形を結ぶ海域のことで,この中に6つの国がある。サモア,アオテアロア(ニュージーランド),トンガ,フィジー,タヒチ,そしてハワイ。

各国が村のようにまとまって6箇所に別れていて,各国(村)ごとに,体験をしたりショーを見たりすることができる。ディナーと夜のショーも予約して,観覧してきた。ポリネシア文化を学びながら,子どもも大人も一日楽しく遊べる,なかなか良いところだ。どうも今年で開設50周年の様子。長く続いているのもよく分かる。

このポリネシアン・カルチュラル・センターは,ブリガムヤング大学ハワイ校とピッタリ横に並んで建てられている。センターの各種バイトは,ブリガムヤング大学の学生がやっている。センターの収益の一部はブリガムヤング大学の教育にも役立てられている(らしい)。ブリガムヤング大学はモルモン教の大学だ。モルモン教はお酒は禁止。センターのディナーではアルコールは出ない。最後のショーも,ポリネシアに宣教師が来て布教するわけだが,その服装がどうもモルモン教。センター内も,宣教師の家,みたいなところもある。なんだこのモルモン教プッシュは。

まぁ,お察しの通り,このセンター,どうもモルモン教が経営していて,要するに横に並んでいるブリガムヤング大学と同じ母体ということなのね。この,大学とセンターがあるライエという街自体が,モルモン教の街,ということである。

で,ライエ。とてもきれいな街。中央にはフードランドというスーパーとともにモールもあって,潤っている感じ。隣の町のカフクは,まぁ結構,寂れているというか情緒豊かというか,古くからある街でなかなか味がある一方,このライエは建物もキレイにペンキが塗られていて,道もキレイに舗装されていて,裕福な印象を与える。大学とセンターがあり,主にはそこの関係者(=モルモン教)が住んでいるということか。なお,ブリガムキング大学は,モルモン教徒じゃなくても入学は可能みたい。

バイトのブリガムヤング大学の学生も全体的にホスピタリティに溢れていて,良かった(中には,若いし,シャイなのか,やや無愛想なのもいたけど;笑)。たぶん,日本や韓国や中国からの留学生が,それぞれの国の観光ツアーの客を案内している。大学とセンター,教育(学生)と商売の需要と供給がうまくマッチしたシステム。脱帽。

とにかく,まぁ,そういう,やや一定の宗教に偏りが感じられる面もあるけれども,全体としてはポリネシア文化を楽しく学べるこのセンターは一押しである。

7/02/2014

潜るか乗るか

滞在79日目。7月2日(水)の午前8時45分。

ハワイの海は,波が高い。人が泳げるような,砂浜が広がる海岸には無論,日本の海に比べたら海水の透明度は格段に高くて,そこには小魚が泳いでいるけれど,シュノーケルして楽しいほどカラフルな魚がわんさと砂浜近くまで泳いでいるわけではない。そういうスポットに行けばいるだろうし,スキューバのポイントもあるのだろうけれど,波が高いので,砂がえぐられて,すぐに深くなる。珊瑚が広がる遠浅の穏やかな波打ち際,というのはもしかしたら少ないのかもしれない。

グアムの海はその点,遠浅で波は穏やか。色とりどりの魚が普通に波打ち際までたくさん泳いでいた。シュノーケルすると楽しいのは断然こっち。パラオはさらにその上を行く魚の多さ。圧巻である。南国風情なお魚が,足下にうようよいる。なまこもたくさんいる。ジャイアントクラム(大シャコ貝)もたくさんごろごろしている。

波が高いハワイは,だから,サーフィンの国なのだ。

若い人も年配の人も,サーフィンをしている。男も女も,サーフィンをしている。ベテランもビギナーもいる。サーフィン教室もたくさんある。サーフィンのボードやグッズを売っている専門店もたくさんある。どこへ行っても街中,サーフィンの写真や絵や物などのアイコンが溢れている。

だから,ハワイと言えばサーフィンなのだ。

サーフボードにはどうも長いのと短いのがあるみたい。それから,ボディボードも同じぐらい流行っている。最近は,スタンドアップパドルボードという,ボードに立って漕ぐのも人気らしい。とにかくみんな,波に乗りたい。波に乗りに来るために,ハワイに来る。

昨日,サーフィン教室みたいなので,ビギナーのみなさんが,比較的穏やかな波を使って,波乗りの練習をしていた。身体全体のバランスを一生懸命に保ちながら,みんな真剣に,かつ,楽しそうに,ゆったりと何度も波にチャレンジしている姿が,とっても微笑ましかった。

サーフィンは,やってみたいと小指の先ほども思わないけれど,身体のバランスの訓練だとすれば,年を重ねてもこれをやってる人は足腰鍛えられて,良いだろうなぁ。根あるいは芯ができないと,これにはちゃんと乗れないはずだ。それに,これほど全身で海と親しめる遊びも他にない。スキューバで潜るかサーフィンで乗るか。

僕の場合は浅瀬で波にまかせて漂いながら水中メガネで海の中を眺める。心持ち潜りながら心持ち乗る。特に何もしない。このくらいが一番楽しい。

7/01/2014

レンタカー

滞在78日目。7月1日(火)の午前5時30分。

7月になった。4月に来たので,月としては,4,5,6,7と,4つ目の月。

そんなに長くアメリカに滞在しているのに,実は昨日初めて,レンタカーを借りて車を運転した。日本にいるときでさえも車の運転があまり好きではないので(むしろ嫌いなので),できればこっちで運転したくなかった,滞在中運転せずに済むならせずに過ごしたかったけれど,やむなし,必要が生じたので,レンタカーを借りた。

右車線左ハンドルである。恐ろしい。

僕の知り合いには,たしか記憶ではアトランタで開催された学会のとき,アメリカのハイウェイを乗りたいという全く了解不能な理由から,わざわざ会場から少し離れたところにホテルを取って,レンタカーを借りて車の運転を楽しむ,という奇特な人がいるけれど,僕からすると,そんなのはただのキテレツ行為である。

生まれて初めて,左ハンドルの車を運転した。

ウインカーやワイパー,シートベルト,シフトレバー,バックミラーなど,いろんなものが右ハンドルとは逆になっている。アクセルとブレーキの位置が逆になってなくて助かった。カミサマありがとう。

さぁ,これから,この左右あべこべになっている車を走らせなければならない。心理学に例えれば「逆さ眼鏡」並みの不安状況である。それほどでもないか。まぁしかし,こうして,操作する車自体慣れないのに,交通ルールも慣れないところを走る,という二重の苦難。だからと言って,ずっとこのレンタカー屋の駐車場にいるわけにはいかない。レンタカー屋のおじさんも,いつ発進するんだこの野郎早く行きやがれ,と笑顔で見守ってくれている。とにかく,発進するしかない。いざ,出陣,いや,発進。

と,ウルトラC難度の状況のせいで,何やら警告音が鳴っていると思いきや,サイドブレーキをしたまま発進。さらにシフトレバーで入れたと思っていたのがDではなくMになっていて,なんだか分からず,低速のまま,エンジンの回転数が上がらない。後から調べたら,Mって,ギアチェンジしながら運転するスポーティなモードなのね。+M-ってなってるから,+にするとギアが上がって,-にすると下がるってことか。要らない。Dでいい,Dで。

事前にハイウェイまでの道を念入りに調べておいたのに,通れるはずの道が工事中で,これまたウルトラC難度。迂回しろって書いてあるけど,どの道が迂回路なのかも分からず,助手席の奥さんにこっちかもあっちかもと教えを受けながら,なんとかハイウェイに突入。一応,この時点ですでに,サイドブレーキ問題とギア問題は解決していたので,なんとか無事,H1に乗れた。

H1からH2に入り,ノースショアへ。

この文章を書いているということは,無事,目的地へ到着したということで,無事故に安堵。何事も,経験である。