滞在108日目。7月31日(木)の午前4時40分。
108日目。煩悩の溢れるこの街で,とうとう煩悩の数だけ滞在してしまった。
その煩悩をポイポイ捨てていくために,ただひたすら身体を練る。身体を練れば練るほど,身体に安住し,そこにある自己ですでに満たされていることに気がつく。今いるここが天国。仏教はそう教える。しかし,あらゆる欲望を捨てるというのは,人間,なかなか無理がある。欲望はだから,強すぎず,弱すぎず,中庸が良い。これは道教の教え。
ところで,一昨日,スティーブに,師匠のMr.Pangの動画を見せてもらった。伝統楊式の套路の柔らかさもさることながら,即興の演武は,なんともすごかった。即興の演武である。題して「生命之舞(dance of life)」とあった。そう,Mr.Pangに関するサイトのタイトルに掲げられる,a dance of spiritual lifeである。
分かりやすく言えば,これは,コンテンポラリーダンスの一種とも見ることができる。昨日,スティーブに詳しく聞いたらやはり,即興で,身体の赴くままに自由に演武するそうで,毎回違うと言っていた。続けようと思えば延々と続けられるらしい。ベースには,太極拳・八卦掌・形意拳があり,それがMr.Pangの中でミックスされて溢れてくる。その溢れるがままに舞う。溢れてくるには,溢れてくるほど身体を練り込んできた,ということだ。
形があって形がない。動きの部分部分は確かに太極拳であったり,八卦掌であったり,形意拳であったりするけれども,全体としては太極拳でも八卦掌でも形意拳でもない。また,動きの順番も,決まっていない。形がベースにあるけれども,全く形に沿っていない。有形だけど無形。
いわゆるブルース・リーのジークンドーは,武術の一つの究極であり,その基本理念は,無形,である。また,中国武術の一つの究極である意拳もまた,同じく,形がない。
スティーブは,Mr.Pangを評して盛んに,geniusだと言っていた。彼はまさに天才的なマーシャル・アーティストだと,繰り返し言っていた。そして,突き詰めれば,形(固定した動きの順番)など本当はどうでも良いのだ,とも言っていた。太極拳の本質とは何かを捉えていること(捉えようとしていること)が重要であり,その幹さえしっかり理解していれば,動き方や動きの順番というのは枝葉だ,ということだ。
マーシャルアーツというのは,究極的には,そこに行き着く。いや,アートというのは,すべて,そこに行き着く。自然に,云為に,身体が身体のままに,動く。
ただ,その道程において,形は必要であり,その形こそにその武術の本質が刻まれていることもまた事実である。だから,形無しを気取って,早々に,形をおろそかにしてはいけない。それは本末転倒である。大いなる勘違いである。修行の終着点は,そんなに近い(低い)ところにはない。
0 件のコメント:
コメントを投稿