滞在106日目。7月29日(火)の午前4時40分。
以前,スティーブと,空手と太極拳の稽古をしたときの違いは何かについての話になった。そのときに,答えに窮したことがある。その答えを,昨日の稽古の時にふと思いついた。
以前のそのとき,なぜそういう話になったかというと,太極拳の稽古をした後は気持ちが良い,ということを僕がスティーブに言ったからだ。するとスティーブが「では,空手の稽古の後はどうなんだ?」と尋ねてきたので,ふむ,確かに当然,空手の稽古の後も気持ちが良いので,稽古の後の気持ちの良さは空手も太極拳も同じだから,そこに違いはない。
そこで答えに窮し,「空手は,稽古した後に疲れるかな」と無理矢理に答えたところ,スティーブは「そういう意味では,太極拳だって疲れる。太極拳も相当な運動だ」と言う返事に,確かにその通りであり,ここでさらに困ってしまった。このときはだから,感覚的にはなんとなく違うんだけれど,どこがどう違うのか,明確に分からなかったのである。
それで昨日,ふと思いついた。空手は形そのものが運動的な面で時にきついと思うときがあるけれど,太極拳は套路を練ること自体が気持ちよいのだ。
これは,伝統的な稽古方法に始まり,稽古時間,師範(インストラクター)の性格などにも依存するから,一概には言えないけれど,空手という武術の運動と太極拳のそれとの違いは,強度の違いが当然大きい。
空手の場合,形を練ると多少なりとも息が上がる。汗も出る。理想的には,なるべく息が上がらないように形を練るべきだけれど,まだまだ練りが足らないために理想にはほど遠い。後で書くけれど,実はここがポイントなのだ。
さて太極拳では,息が上がることはない。じんわりと身体を練る。運動量は相当であるが,だくだくと汗をかいて息が上がってへとへとになる,ということはない。じっくりと柔らかく,なるべく力を使わないように動く。気持ちが良い。これを気で表現すれば,身体全体の気の流れが良くなる,ということだろうか。
では,空手では気の流れが良くならないのか。
太極拳の文脈で言えば,空手は始終「勁」を発し続けている武術といえる。つまり,常にではないけれど,強く速く動くことが随所に含まれている。力を使う。これが体力を消費する。筋肉を緊張させる場面が多いから,交感神経系優位になる。したがって,形の後は,その反動で副交感神経系が優位になり,気持ちよくなるわけだ。しかし,形の最中は,どうしてもそうはいかない。
これはまだまだ修行が足りないのだ。この先には,おそらく,太極拳と同じところに行くべきなのだ。つまり,気の流れが良くなるような形を練るべきなのだ。たとえ空手の形でも,そうあるべきなのだ。言い換えれば,空手の形を練るそのことそのものが,気持ちの良い運動になるまで練り上げていくことが重要なのだ。
そう思うと,確かに,形を練っていて,身体的に気持ちの良い瞬間というのが確かにときどきにある。フロー状態である。このときはたぶん,妙な力は入っていない。柔らかく自然に形が練られているのではいか。あの感じを全体に伸ばしていければいいのかもしれない。
それでさらに思い出したけれど,僕の師匠の小林先生の師匠である西田先生(正修館館長)は,形を終えた後,まったく息が上がってない(少なくとも,上がっているようには見えない)。自然に動いている。無理な力は一切入っていない。
あの域に達するには,僕の修行はまだまだ足りない。
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