5/12/2014

空手化

滞在28日目。5月12日(月)の午前4時50分。

昨日は一日,雨模様。といっても日本のようにザーザーと降る雨ではなくて,こちらはいつもサラサラと降る霧雨程度。それでもときどき日が差したりして,とにかく天気は変わりやすい。雲がよく動く。

午後には奥さんに,子ども二人をチルドレンズ・ディスカバリー・センターへ連れて行ってもらったので,僕は部屋でひたすら太和拳を練る。4畳ほどスペースがあれば,動きを区切らずに套路を全部行える。太和拳はだから,太極拳と違って,場所をほとんど取らない。

ボブから習った太和拳を一人で練っていると,どうしても空手っぽくなってしまう。というか,僕がやると空手に見えてしまう,といった方が正しいか。

Youtubeで太和拳の動画を眺めていると(日本人の動画はないけれど,中国その他,諸外国の人たちの動画がけっこうアップされている),皆,人それぞれ,若干動きが違う。動作の順序は同じだけれど,細かいところが一人一人違う。教えてもらった師が違うわけだから必然そうなるし,また,各自自分のアレンジを加えているはずだ。それは,武術というのは身体的な伝承だから,ある程度は仕方がない。この辺りの伝承論については,拙著『空手と禅』を参照されたい。

空手も元々,中国人から習い,それが徐々に沖縄化して,空手となったと考えられる。無論,もともと沖縄にも土着の武術があって,それをベースとしつつ,中国の武術を取り込み進化したとする考え方もある。ただいずれにせよ,中国の当時の拳法の套路を,当時の沖縄の武術家が習い,自分の技としていったことには変わりない。

すると,もうすでに中国では失伝しているためか,あるいは取り込む過程で変化したためか,ルーツを全く辿れない空手の形が多い。つまり,完全に空手化している,ということだ。

形を練るという稽古法が中国拳法の套路を練るという稽古法と同じである点,形の呼び名に中国式のものがある点,沖縄と中国の歴史的な関係性という点からして,中国拳法が空手のルーツもしくは絶大な影響を与えているものだということは間違いない。

このように,ある術を習った,覚えた,という場合には,その後に2つの経過が考えられる。1つは,その術を正確に修得するまで練る。もう1つは,その術を自分の術に取り込むように練る。前者の場合は,その術の伝承が,その人の目的となる。後者の場合は,自身の術の発展が,その人の目的となる。

沖縄の古の武術家たちは,たぶん,後者だろう。中国拳法を正確に伝承することが目的ではない。彼らは彼らの術として,習った套路を練っていったと考えられる。それが空手化の一つの要因となっているように思われる。

もう一つは,継続的な師の指導がない点だ。ある術を習い,その術について定期的に継続的に,習った師から指導を受ければ,その術を正確に身体に染み込ませることができる。つまり,身体に染み込む過程で常に修正がなされる。だから,身体的な伝承は,もしそれを正確に伝承するのなら,こうして,継続的定期的な師による指導が必要だ。でなければ,どうしても教わった側のアレンジが加わる。

沖縄の古の武術家は,師による定期的継続的な指導という稽古はできなかっただろう。貿易で一時的に琉球に来た中国人などから教わったり,中国に渡って一定期間習ったりしただろうが,いずれも短期間だろうから,定期的継続的な稽古は望めない。すると,とにかく,習ったことの記憶を手がかりに,後は自分で練るしかない。この過程が,空手の独自な発展,つまり,空手化の要因の一つとなっているはずである。

ここまで書いて,何が言いたいかというと,自分の太和拳が空手化するのは,やむを得ないことだなぁ,ということ。ボブから太和拳を習うのは,太和拳を伝承するためではない。飽くまで,自身の空手修行に役立てるためだ。もう一つは,太和拳の稽古は,定期的継続的ではない。とりあえず,套路の全容を教えてもらったに過ぎない。

さてこうなると,練る過程で空手化する,つまり,空手っぽくなるのは,これはもう,仕方がないことだなと思っている。Youtubeを見てもみな十人十色。しかし,似ているのは雰囲気。これはやはり,誰もが一人の師について継続的に習っているから,中国拳法・中国武術の雰囲気はちゃんと掴んでいる。これに対して,自分の練る姿を見ると,その雰囲気がない。まだないのか,はたまた,今後さらになくなるのか。

術を習う,術を練る,というのは,だから面白い。

0 件のコメント:

コメントを投稿