滞在24日目。5月8日(木)の午前5時30分。
昨日は夕方にドンキホーテに行ってきた。話に寄ればここは元々ダイエーだったらしい。だから古い平屋の建物だけど,中はとにかく広い。
日本のドンキホーテのような,例の「圧縮陳列」というほどではないけれど,置いてある商品は質量ともにとにかく多い。衣料品,土産物,生鮮品,電化製品,食品,化粧品,薬,カー用品,文房具,総菜,魚屋,肉屋,お菓子類,各種日用品・・・とまぁ,とにかく何でも置いてる。
客層は,地元の人が中心。日本の商品もたくさん置いている。だから店内は日本語が溢れている。値段も全体的に安い。10列はあるレジは全部,店員二人ペアで,一人が会計をやって一人が商品を袋に入れる(こっちのスーパーはこのパタンをよく見かける)。ポキを買ってきて,夕飯のおかずにした。ポキ(マグロの漬け)は美味い。特にスパイシーに和えたヤツは,美味い。
話はこれとは全く違うけれど,最近ふと思ったことがある。
ここ数日,ティク・ナット・ハン氏の書いた本の翻訳書「ブッダの幸せの瞑想」を読んでいて,その中に,坐っていてどこか痛いところがあったら,マインドフルに身体を動かして姿勢を直せばいい,とサラッと書いてあった。
無理にその痛みに耐え続けることはなくて,マインドフルであれば,身体を動かしても別に構わない,ということだ。つまり,坐禅ってのは,別に絶対に動かないでじっと坐り続ける我慢大会でも,また,そうやって耐えることを目的とした修行でもない,ということだ。
その通りである。そんなことは当たり前のことである。坐禅はそんなものではない。そんなことはとうに分かっている。坐禅は,安楽の法門である。
と思っていたけれども,全然そうではなかった。全く分かっていなかった。
前からそうだったけれど,坐っているとき,よく眠くなることが多かった。ゆっくりと深く呼吸をしていると,あまりにも気持ちよくなりすぎて,ついうとうとしていまうのだ。早いときは5分もしない内に眠くなる。
そうなると,もう後は,眠気との格闘だ。眠ったら駄目だ,眠るために坐ってるんじゃない,ああ眠い,目が閉じる,いかん眠ってはいかん,ああ気持ちいい,ゆらゆらと揺れて夢の世界へ,いかん駄目だ昏沈だ,ああ意識が遠のく,駄目だいかん,ああ眠い・・・とまぁ,残りの坐っている時間,こうして眠気と戦い続けることになる。正直,こうなると苦しい。
そう。知らず知らずのうちに,苦しさをずっと我慢する,我慢大会をやっていたわけである。これでは意味がない。
そこで,ティク・ナット・ハン氏の言葉を思い出した。
で,何をしたかというと,眠くなったと思ったら,手の位置(手のポーズ)を変えてみた。今までは常に法界定印に手を組んでいたけれど,例えば,両手を膝の上に置く,そのとき手の平を下にする(膝を包むように置く)か,手の平を上にするか,そのとき,親指と人差し指を結ぶか,親指と中指を結ぶか,と言ったように,眠くなる度に,柔らかくいろいろとポーズを変えてみた。すると,今まであれほど格闘して手強かった眠気が,あっさりと消えた。眠気が飛んで,意識がクリアになった。
身体の姿勢がわずかにでも変わると,意識がクリアになる。その変化にマインドフルになる。あるいは,変化することで身体がマインドフルを保つ。わずかに刷新される身体の形が,マインドフルネスを維持させる。もしかしたら,坐ったまま全く動かずとも,身体のそこここの微細な変化の感覚に気がつくようになれば,自然と昏沈も散乱もしなくなるのかもしれない。
坐禅は,動かないことに意味があるのではない。マインドフルに在ることに意味がある。だから,マインドフルに動けばよい。そもそも,経行という歩く禅もあるではないか。空手は動く禅だと言って,自分でわざわざ本まで書いたではないか。
だから,眠気と格闘して苦しんで我慢大会をしているぐらいであれば,動いてはいけないという囚われを捨てて,動けばいい。
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