滞在23日目。5月7日(水)の午前5時。
昨日久しぶりにビーチに行ったが,ずいぶん人が減っていた。ゴールデンウィーク過ぎて日本人が帰ってしまったからだ。街中を走る(実質的に”日本人専用”の)トロリーバスもずいぶん空いている。次のピークの8月までこんな感じなのかな。
制定の八段錦を練り始めてから5ヶ月,最近なんとなく手の平に,暖かいような痺れるような感覚を覚えるようになった。神経痛というわけではない。丹田を意識して腹式呼吸をするとき,手の平や足の裏を通して呼吸するイメージをする。たぶんそのためだ。
道家の気功では主に,手の平の「労宮」や足の裏の「勇泉」というところ(ツボ?)から,天と地の気を取り入れたり,また,天と地に気を戻したりするイメージで行う。気ではなくて,手の平と足の裏を通して息を出し入れしているというイメージでもある。いずれにせよ,そういうイメージで腹式呼吸(横隔膜呼吸)をしていると,ときどき手の平の感覚の変化を感じるようになったということ。たまたまかもしれないし,今だけかもしれないし,よく分からないけれど。
これは別に気が出ているとか,そういう超自然的な,神秘主義的な,悟空的なものではない。手は他の身体部位よりも細かい作業や動作ができる分,感覚も鋭敏なはずであり,そこがまず,微細な身体的変化を感じるようになったということかな。特に,「労宮」を意識して呼吸することで,手の平の感覚がより鋭敏になった(なるときがときどきあるようになった),ということか。
それで,これ,面白い感覚である。暖かいような,痺れるような,こそぐったいような,手の平が熱く(厚く)なったような,何とも表現したがい感覚。常に感じるわけではなく,ふとなにげなく,「労宮から天地の気を吸い込むように」とイメージしながら息を吸ったり吐いたりしてると,感じたりする。
稽古を続けると,こういうのをいつも常に新鮮かつ鋭敏に感じられるのだろうか。それとも,まれにふと感じるものなのだろうか。座禅も,今日はよく座れたなというときとそうでないときといろいろあるから,こういう感覚もいつも常に,というわけじゃないだろう,たぶん。いやどうなんだろう。
制定の八段錦は,中国の体育センターが近年になって編集・再構成した,いわば健康体操であり,道家的な気だとか道(タオ)だとか陰陽だとか言った話はほとんど捨象している。「健身気功」と言っているぐらいだから,身体的な健康に重点を置いている。おそらく文化大革命のあおりで,あえてそういう思想的宗教的な側面を排除しているのだろう。
もともと道家の修行体系自体,最初は身体的な健康を求めるものであるから,もともと道家の修行として始まっている導引法・養生法の流れである現代の健身気功の機能と意義は,だから,ぜんぜん間違っていない。正しい。まずは身体なのだ。
特に制定の八段錦は,よく考えられていて,ストレッチングと筋弛緩と呼吸をうまく織り交ぜた構成になっている。しかも,動作もそれほど難しくなく,覚えやすい。最近はyoutubeもあるから,テキストを一冊手に入れて,後は,動画を見よう見まねで,それなりに形になる。セミナーも都内で開講しているから,動作の微妙なところを学ぶために1~2度参加すれば,あとは十分一人で練ることができる。(と思う)
そうして5ヶ月毎日練り続けて,ようやく手の平の感覚に違いを感じた。ただこれは,最近,道家気功や道教の本を読んだこと,何ヶ月もずっとボブの本(The Tao of Stress)を訳していることなども影響してるはずだ。それにボブから伝統的な(古流の)八段錦と易筋経,それから太和拳を習ったり,ボブの本にある孫式太極気功をやってみたり,さらにはスティーブから楊式太極拳を習ったりと,あれこれやっているせいもあるだろう。おそらく。
こういう,身体の微細な感覚を,大切に。
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