滞在62日目。6月15日(日)の午前4時20分。
毎日毎朝,形を練っていると,たまにふと,「一体なんで俺はこんなことしてるんだ」という疑問が浮かび,心底ばかばかしくなるときがある。具体的な効果,目に見える効用,そういう分かりやすい変化や変容は,一切ない。日々の変化や変容は,極めて微細だ(そこを楽しむわけだが)。
したがって,術の実践に,意味などない(としておいた方が良い)。もちろん,やれば色んな副次的効果(短期的には微細な効果,長期的には絶大な効果)が数え切れないほどあるけれど,それら(短期的な効果)自体を目的にすると,その副次的効果が(短期的には)得られない(微妙すぎて気がつかない)場合に,期待はずれとなる。だから,そういう具体的な副次的効果を「狙って」練ってはいけない。というか,狙わない方が良い。
(長期的な)稽古(の継続)の末に到達しようと思っている先は,あるようでない,ないようである,そんなところである。それは禅あるいは空であり,また,タオである。だから,稽古は,やらないよりは絶対にやった方が良いことははっきりしているけれど,やらなければならない,というわけではない。個人の自由だ。
ただひたすら練る。生きることと同じである。
「一体なんで俺は生きてるんだ。なんで俺は今ここにいるんだ」という<疑問>が浮かぶことがあるけれど,それは答えのある問いではない。だから考えても,意味や理由や原因などは見出せない。つまり,これは本質的には,<問い>ではなく<疑い>なのだ。
そういう疑いが生じたからと言って生きることを止める,ということは滅多にないけれど(いや,実際,人が自殺を企図するのはこのタイミングかもしれない),このタイミングに稽古を止める,形を練ることを止めてしまう,というのはありうる。
なんで生きているのかという疑問に答えはなく,では生きるのを止めようかと思っても止められないので,結局そのうちにこの疑問がうやむやになる。なんで稽古しているのかという疑問にも同様に答えはないのだが,ただここで,稽古の場合は止めようと思ったら止められる。稽古は,やらなくても生きていけるからだ。
しかし,稽古をここで止めてはいけない。術の実践(形の稽古)は,阿呆になってひたすら続けることに,道(どう)としてのミソがある。術の実践(形の稽古)を永遠に続けるところに,道(タオ)がある。
さあ,今日もまた,稽古しよう。
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