滞在51日目。6月4日(水)の午前5時。
「気」は,科学的には存在しない。しかし,説明概念としては非常に優れている。
科学的には存在を証明されていないけれども,それは単に観測する側の科学の限界,つまり測定の道具や方法の限界なのであって,実際には存在するが,存在が証明されないのは単純に未発見なだけだ,という立場はありうる。この人たちは,「気」が存在することを疑っていない。ここでは,実在派と呼ぼう。
また,科学によって存在が証明されるとかされないとかは全くどうでもよくて,存在するのだからその存在を単純に信じている,という立場もありうる。神様はいる,幽霊はいる,妖精はいる,宇宙人はいる,死後の世界はあるなどなど,対象概念に一片の疑問も挟まず,とにかく,いる(ある)ことを信じているかどうか,という次元の問題として,「気」を信じている人はいる。この人たちも,「気」が存在することを疑っていない。ここでは,信仰派と呼ぼう。
僕の立場(派)はどこ(何)なんだろう。
「気」は,科学的には存在しない。これから未来永劫,どんな観測装置が開発されようが,科学的な意味で,発見されることはないと思う。つまり,物理的にはやはり絶対に存在しない。だから実在派では決してない。
しかし,身体を操作したり意識したりするときに,この「気」という概念を用いて説明すると,用いない場合に比べて,身体を操作しやすかったり,適切な方向に動かしやすかったり,身体の各所を明瞭に意識しやすかったりする。これは揺るぎない。ならば信仰派か。
明瞭に意識しながら適切に身体を操作することが求められる種々の身体技法からすれば,この「気」という説明概念を上手く用いることが,身体を練る上で大いに助けとなる。「気」とはそういう道具であり,つまり,方便である。そう,あくまで方便なのだこれは。だから信仰派ではない。
科学的に存在するとは思っていないし,科学的な存在証明とは別次元で存在を信じているわけでもない。でも,使った方が便利だと考えている。こういうのを,実用派,実利派,功利派,というのだろうか。いずれにせよ,そんなところである。
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